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null  乗組員の祈りが天にとどいたかのように、出港七日目でやっと風がおさまった。朝起きると黒い厚雲は去り、薄いすじ雲の切れ目に待望の青空が見えた。 「お天道様じゃ」  雲間からさしこむ陽光が、鉛色の海面に照り返った。日本人乗組員の顔に、初めて安堵《あんど》の色が浮かんだ。昼にはマストの上に青い空が広がり、出港してから初めての快晴になった。 「富蔵兄い。お天道様が見える。甲板に出て体を風に当てたがよい」  富蔵が高次の肩を借りて甲板に出た。太平洋の海面の色が、青空を映して濃い蒼色《あおいろ》に変わり、小波《さざなみ》が太陽の燦《きらめ》きを眩《まぶ》しく照り返してきた。 「おお。波がおさまっちょる。……それでここは、どのあたりじゃ」 「わしにもわからぬ。まだアメリカは遠い先じゃと万次郎さんはいうておった」  アメリカ人海兵が濡れた衣服を、甲板にところ狭しと干しはじめた。それを見た日本人乗組員も、船べりやロープに濡れ物を干し、咸臨丸の甲板は満艦飾になった。  濡れた衣服が軽やかに風にはためき、アメリカ人海兵の干したベッドシーツが、陽光に眩《まばゆ》い白さを反射している。濡れ物を干し終わると、ハッチを開けて船室の防水窓を開けた。  大時化《おおしけ》で船内がべっとりと湿り、嘔吐物《おうとぶつ》のにおいが充満している。部屋の扉を開け放って総員で雑巾掛《ぞうきんが》けした。防水窓から清々《すがすが》しい空気が流れ込んできて、爽《さわ》やかな潮風の匂いが船内に満ちた。 「ええ気持ちじゃなあ」  高次は海風の香りが大好きだった。子供のころ小舟に乗って海に出て、夏の黒南風《くろはえ》が運んでくる潮の香を吸い込めば、気分が晴れ晴れとした。嵐を乗り切った咸臨丸は、いま太平洋の快い海風に包まれていた。  甲板のいたる所で、日本人乗組員が座り込んで、火鉢を抱えて熱い茶を飲み、煙管《きせる》煙草を咥《くわ》えている。茶を飲みながら煙管煙草を吸う習慣は、江戸期の日本人の特徴的なものであったが、船上生活の火鉢と煙管煙草は危険である。長崎でオランダ人教官が、日本人のこの悪習慣を止めさせようとしたが、勝が大の煙管煙草好きだったために、ついに改まらなかった。  元気なときなら富蔵も煙管煙草をたて続けに吸い、火鉢に灰をポンポンと落としただろう。だが青白い顔に髷のほつれをへばりつかせた富蔵は、煙管煙草を手に取ろうとしなかった。高次は煙草を吸わなかったが、富蔵には煙管煙草をたて続けに吸ってもらいたいと思った。  船室の清掃を終えて富蔵を寝かしつけた高次は、竃《かまど》に火をつけて塩飽粥《しわくがゆ》を作った。塩飽粥とはお茶の葉に塩をふり、数年間発酵させた茶葉を粥の味付けに使う。これは塩飽の千石船乗りが古くから愛用した粥で、航海中の船酔いと腹下しによく効いた。  船酔いで倒れた日本人のほとんどが、出港してからまともな食物を口にしていない。とくに乗船前に風邪をひき、腹痛のまま乗船した勝の衰弱はひどかった。高次は温かい塩飽粥を艦長室に運んだ。